道東製めんの歩み | 道東製めん

道東製めんの歩み

富良野から釧路へ

増田泰三.jpg道東製めん創業者 増田泰三私は青年時代、旭川の製麺所で修業し、昭和33年(1958年)ころ、自分の生まれ故郷の富良野でわずか三坪(9.9平方メートル)の物置小屋を借りて製麺の仕事を始めました。しかし、独立して製麺所を始めたものの、鳴かず飛ばずの状態がしばらく続きました。そこで富良野よりも人口の多い釧路へ移り、一旗揚げようと決心しました。当時の釧路は漁業で水揚げ高全国一を誇っており景気が非常に良かったのです。昭和42年(1967年)のことです。


試行錯誤の日々

 麺ほど地方性の豊かなものはありません。そのことに全く無知だった私は、旭川ラーメンが釧路でも通用すると思い、釧路でも食べていくくらいのお得意さんはすぐ決まるだろうと、いささか甘く見ていました。しかし、旭川ラーメンが釧路で全く通用しないことを知るのに、そんなに時間はかかりませんでした。
 売れない商品をいくら作っても食べていけるわけがありません。途方に暮れた私は、夜の街を流している屋台のラーメンを食べ歩き、釧路ラーメンの謎に少しでも迫ろうとしました。当時は屋台全盛のころで十二、三台はあったでしょうか。どの屋台も繁盛していました。そこで知り合ったのが屋台「百番」の主人でした。私が熱心に通うのにほだされたのか、主人は釧路ラーメンの特徴を話し、「これを参考に研究しなさい。よいラーメンが出来たら使ってあげてもよい」と麺を一個、私に手渡してくれました。試行錯誤の半年間は大変でした。釧路ラーメンと旭川ラーメンの違いは、手打ちに近く軟らかめなのが釧路。水分が少なく硬めなのが旭川。また、釧路ラーメンは麺の太さも札幌や旭川と異なり、極端なほど細いのが特徴です。太い麺よりも細い麺のほうが切れやすく、腐敗も早く、麺の仕込には大変気を使います。そのため、朝一番に会社に出勤するのは私で、ミキサーの中をのぞいて水分の度合いを測り、生地を帯状にした麺帯に触れたり、その表情を眺めたりするのが日課となっていました。

ラーメンは生き物

 昭和52年(1977年)に製粉会社は漂白剤の使用を中止し、それ以後は無漂白の小麦粉が主流となりました。小麦粉のなんでもないと思われる変化が、実はラーメン作りを難しくしています。小麦粉が周囲に浮遊する微生物の影響を受けやすくなり、ある日なんの前触れもなく酢酸菌に犯されたことがありました。酢酸菌は酢を醸造するときに使われる菌です。麺が酢酸菌に犯されると、ミキサーの中で生地が黒く変色する、あるいは麺を茹でたときにいきなり麺が浮き上がってしまう、などの現象が起きてしまいます。私は当時何がなんだか分かりませんでした。水産試験場の場長が細菌学の権威だと試験場の知人から聞いたのを思い出し、その知人を頼って試験場に分析を依頼しました。その時初めて酢酸菌のことを知りました。恥ずかしい話ですが、このとき「小麦粉は生きている。従って、ラーメンも呼吸している」ことに気がついたのです。

ラーメンの虜に

 ラーメンは生きている。ラーメンの中に哲学がある。それを発見したとき、私はラーメンの虜になってしまいました。道東製めん社屋.bmp現在の道東製めん社屋平成元年(1989年)、現在の工場に移転したときも、彼ら(ラーメン)は反乱を起こしました。今度は過熟性になり、麺がゴムのようになってしまったのです。環境が変わる都度、ラーメンの味は変化します。そんなとき、いつも私は彼らの力の偉大さに畏怖の念をいだくのです。江戸時代の職人が神(自然)を畏れ、自然と調和をはかったように、私はラーメンの心の内を探ろうと、もの言わぬ彼らに優しく手を触れるのです。

増田 泰三